詩人にして画家(ガラス絵)ー桐本美智子氏の創造性とリーダーシップ

桐本美智子氏は、芸術家である前にこの上ない「愛」を持って何ごとにも接し、かつ受け入れる。その魅力有る人間力は周りの人々を感動させ、ひとりでに行動を促すリーダーシップ力となる。んn

 

「創造的な経営」に関する面接調査結果

面接者:橋本壽之(記) 

 

回答者:桐本美智子

日本美術家連盟会員。横浜ペンクラブの会員。日本作家クラブ会員、平塚ロータリークラブ会長。独自のガラス絵を考案し、「毎日新聞新世紀神奈川県の百人」、横浜開港150周年記念「百人一首」にも選ばれるなど、各界から高い評価を得ている。著書:『理子物語 梅屋敷のクロちゃんの娘』(日本図書刊行会)。

 

1. 御社における「創造的な経営」について

1.1 その概要をお知らせ下さい。

<それまでと異なる、新規性、革新性、創造性について>

ガラスの裏側に絵を描くことにより、奥行き(深さ)を表現できるようにした。複数枚(2枚~8枚)のガラスを、割り箸の厚さ程度離して重ねることにより奥行き(深さ)を表現したことは誰もやらなかったコロンブスの卵である。また、「磨りガラス」を用いて、透明な面に絵を描きザラザラな面を表面に出すことにより、被写体表面の微妙さを表現したり、凹凸のあるガラスの面に絵を描いて立体感を表現するなど、ガラス絵の世界で革新的な取組を重ね、「毎日新聞新世紀神奈川県の百人」に選ばれた。

 

1.2 それは、どのようにして起こりましたか。

1.2.1 あなた、あるいはそれを主導された方について

<創造に至る動機やきっかけ等>

文章を書くのが好きで、子供達に絵を教えていたが、あるとき「セル画」(アニメ映画用に塩化ビニールの裏に絵を描く)を教えることになった。これを機会に、自分はガラスに絵を描いてみようと思い立った。

ガラス絵は、宗教画(イコン)以来進歩が無く平板的なガラス絵は沢山あるものの、芸術性はあまり高くないとされてきた。また、通常の絵は表面に絵の具を重ねることにより立体感を出しているので、自分は奥行き、深さを表現したいと思うようになった。その一念で取組んでいたら、ガラスの裏側に絵を描くオリジナリティが生まれた。

 

<創造性を生む源泉>

・ 父親は弁護士でありながら、服でも文法具でも何でも器用に作り、自動車1級整備士の免許を持つ大変器用な人であり、母親は俳句と音楽が好んだが、そういう両親のもとで、おしゃれをさせてもらって育った。子供時代は、戦後間もなく物資が不足していたが、父親が整備した外国製中古車から米国の綺麗な雑誌(カラー)を入手してよく見ていていた。母からは歌が下手だと言われて、音楽には劣等感を持った。

・ 絵を描くことは楽しいが、決して満足することはなく、自分で自分に満足できない。「どうだ、うまくいっただろう!という自分」と、「未だ駄目だ!という自分」が相半ばするため、いつまでも追及の手を緩めることが出来ない。

・ 裸の絵を描くのが好きである。それは、同性から見ても女性の体、特に日本人の肋骨の下から腰骨の間の曲線、はとても美しいからである。男の裸を描いたこともあるが、直線的でちっとも美しくないので止めた。

・ 若いときは、関係者を感動させてやろうという意欲で取り組むことがあったが、年齢を重ねるに従い枯れて、自分がやりたいことをやるようになってきた。

 

 

1.2.2 職場や社会との関わりについて:

<促進要因>

・母親達から依頼されて子供達に絵を教えることになったとき、自分は美大を出てないので母親達が自分の芸術性に不安を抱くのではないかと心配し、上野の森美術館展に出品して入賞するなど社会的評価を得る努力をした(後になってから、母親達は美大卒でないことを気にしていないことが分かったが)。

・門下制度が確立している教室では、先生を差し置いて新規性を出すことをタブー視する閉鎖性がある。しかし、自分のガラス絵はどこにも属さずに一人でやっていたため、そのような弊害がなく、自由に創造性を発揮することが出来た。

・企画画廊に出展したとき、扱ってくれた平塚画廊は新しい画廊だったので、お客が集まらずに迷惑をかけては申し訳ないと、新聞に掲載してもらいPRしようと考えた。当時はまだ若く、新聞社とのコネが無くどうしたらよいか分からなかったため、平塚市の「心配事相談所」を訪ねた。すると、場違いな相談に課長が出てきて、役所内の記者クラブに紹介してくれた。ガラス絵は珍しく話題性があったため、出展初日にはいくつもの新聞社とNHKが取材に来てくれ、大成功を収めた。

・ガラス絵という未知のものを扱ったにも関わらず、「デッサン力がしっかりしていること」が評価され信用してくれた。

・ガラス絵に興味を持ったニコンの研究所の方が、傷物のレンズを多数譲ってくれた。これに絵を描き、グラインダーで削ってブローチを作ったところ、飛ぶように売れた。

・困っている人間を沢山支援してきた両親に育てられたが、本人も多くの人々から支援を受けることができた。人を信用し、謙虚な心で対すると人は必ず応えてくれる、応えられ信用されると言うことは、自分への自信に繋がってくる。人はいつも誰かと繋がっていなければ生きていけない(p.117)。

・ 絵のコレクターがよく買ってくれる。

<阻害要因>

・ガラス絵は、壊れると危ないという理由で、上野美術館では出展が許可されない。海外ではそのようなことはないのに。

・米国で活動するよう勧められたが、いろいろ検討した結果、健康に自信がなかったのと、

受験期の子供が3人も居たので、家庭を大切に考え断念した。

 

1.3自然や芸術への関心について

<あなたは、自然の神秘や芸術の美しさに感動を覚えたり、親しまれたことはありますか>

・ 育った環境は、東京とは言え当時は森に囲まれカエルやザリガニが沢山いる自然に恵まれ、水に潜ってザリガニを捕って遊ぶなど自然に親しんで育った。

・ 子供の受験期にも、パリやローマに出かけて芸術鑑賞するほど熱中する。

・自然の物の形に感動し、本を丁寧に読むように季節の移ろいを味わう事が出来なければ、詩は書けないと思う(私は詩人です)

<自然や芸術に対する感性は、創造的なことをする動機や感動を高める効果があると思いますか> 

 ・全く違う角度からものを見たり、自然のものに感動しなければ感性は生まれない。感性は自分の奥深い所で積み重ねられて行くものである。

・私の中で今一番評価され、乗っているのは「詩」なのですが、私は絵を描く時いつも絵の中に詩がなければいけないと思っています。詩の中には哲学がないとだめでしょう。常にそうありたいとこころがけて言葉や感性を大切にしているつもりです。

 

 

2.「創造的な経営者」を育成するためには

一般的にどのようなことを、心がけるべきだとお考えですか。

<教え、励ます等の直接的支援>

・こうやればよい、という理論はない。正確に描写すればよいものでもなく、誇張することは必要だが度を超すといやらしくなるので、感性が重要である。

・ やり方は教えることができても、後は本人自身が工夫しなければならない。自分もいまだにありとあらゆる工夫を重ねている。

・ 立体を平面で表現するには、教えてできるものではなく能力が必要である。石膏のデッサンをするとき、対象物の各表面は少なくても24平面のグラディエーションから成り立っていると教えてたり、ドガのデッサンを逆さにして3㎝位ずつ模写させていく、つまり固定概念を取り去っていく事が大事だと思う。

 

<職場環境作り等の間接的支援>

・才能はあるものの不良の高校生に芸大進学を勧めたことがあったが、親は芸大進学のための浪人に反対だった。そこで、このまま登校しないで悩むより、芸大進学を目指せば悪いことをする余裕が無くなるのでその方がよいのではないかと親を説得した。そして、二人で一緒に毎日2枚のデッサンを続け、芸大に入学させることが出来た。結婚式に招待され、恩人だと皆の前で泣かれた。

・脳障害の人は、普通の人が30㎏をいつも背負って歩いているのと同じなのです。だから

疲れてノロノロし、動きが鈍くなるのです。私は3歳〜90歳迄の人(健常者、脳障害者も   含めて)に指で描く絵を教えていました。様々な年齢と様々な障害の人と接し、人は「根っこの所では皆同じ」と云う感じを持っています。

 ひとつの小さなグループ社会があると、その中には、人の配置と云うものが出来上がってくると思う。それぞれのスタンスのところで役割を自然と果たしている。人の形態として、生き物の形態として様々な人が居るのは当然の事で、そこを見誤らないようにする事が大切だと思う。

 障害者施設ふじみ園の金子さんは、近所の人達からはその風体が怖いと恐れられているが、自分は金子さんの心を知ると、金子さんが怖いとは思わなくなる。金子さんの悲しみや嬉しさは絵を通じて伝わってきます。私は金子さんがちっとも気味

悪いとは思いません。金子さんとハグする事は日常茶飯事です。私は偏屈な人に接するのが得意です。自分が怖いと思うと相手も怖がるのです。自分は自分だからと、自然体でいると何事も、どんな人も自然に受け入れられる。何も怖がらないで済む。私は何事も一度受け入れてみます。

 

 

理子物語―梅屋敷のクロちゃんの娘 桐本 美智子著